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札幌高等裁判所 平成元年(ネ)59号 判決

主文

一  原判決を次のとおり変更する。

1  被控訴人は、控訴人甲野一郎に対し、四二一五万六二九〇円及び内金三九六五万六二九〇円に対する昭和五九年一一月二三日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

2  被控訴人は、控訴人甲野太郎及び同甲野花子に対し、それぞれ二七〇万円及び各内金二五〇万円に対する昭和五九年一一月二三日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

3  控訴人らのその余の各請求を棄却する。

二  訴訟費用は、第一、二審を通じ三分し、その一を被控訴人の負担とし、その余を控訴人らの負担とする。

三  この判決は、第一項1及び2、第二項に限り、仮に執行することができる。

理由

一  請求原因1(当事者)の事実は、当事者間に争いがない。

二  本件事故の発生に関する当裁判所の認定は、次のとおり付加、訂正するほかは、原判決一三枚目表一二行目冒頭から同一八枚目裏一行目末尾までに記載のとおりであるから、これを引用する。

1  原判決一三枚目表一二行目の「二七日」の次に「午前中」を加え、同一四枚目表八行目から九行目にかけての「二四日」を「三〇日」と改め、一一行目の「成立に争いのない」の次に「甲第三一号証、」を、「乙」の次に「第二号証の1ないし3」を、一二行目の「第一九号証の1」の次に「ないし61、控訴人ら主張のような写真であることに争いのない甲第三〇号証の1ないし6」を、末行の「第一七号証、」の次に「被控訴人主張の図面であることに争いのない乙第四一号証、」をそれぞれ加える。

2  同一四枚目裏九行目の「二七日」の次に「午前中」を加え、同一五枚目表九行目の「見られた」を「見られ、泣いたり受診を嫌がつたりする興奮状態にあつた」と、一一行目の「原告一郎の過去の病歴」を「カルテに記載された控訴人一郎の従前の診療の経過及び内容」とそれぞれ改め、同一六枚目表四行目の「周囲の」の前に「三秒間位」を、九行目の「叫んで」の次に「処置室に隣接する第三診察室で診察中の」を、同裏四行目の「聞いて」の次に「、緊急事態の発生したことを察知して」を、「連絡し、」の次に「挿管による人工呼吸に備えその技術のある」をそれぞれ加える。

3  同一七枚目裏六行目の「一分前後」を「数分」と改め、同一八枚目表二行目の「三分」の次に「、控訴人一郎が心・呼吸停止してから一〇分」を、同裏一行目末尾に「控訴人一郎は、現在中学校三学年に在籍し、養護学校の最重度障害児の学級に通学し、教育・訓練を受けているが、上肢・下肢とも全く動かず、おむつを使用し、食事は嚥下できるのみであり、家族の介護なしには生活できない。」をそれぞれ加える。

三  そこで、被控訴人の責任について判断する。

1  被控訴人の債務不履行責任について

(一)(1) 請求原因3(一)(1)(診療契約の締結)の事実は、当事者間に争いがない。

(2) 同(2)のうち、被控訴人が、宍戸医師、上村看護婦、松橋看護婦、逢見看護婦らを雇用しており、同人らをして控訴人一郎の診療に当たらせたことは、当事者間に争いがない。

(二)  そこで、控訴人一郎に発生した心・呼吸停止の原因について検討する。

(1) 前示の事実(原判決引用)に、《証拠略》を総合すると、控訴人一郎は、被控訴人病院において、昭和五五年四月一〇日から昭和五六年一月九日までの間に七回、同年九月九日から同月二九日までの間に六回、同年一〇月六日から同月二七日まで四回、それぞれ咳嗽・発熱等の症状で治療を受けたが、同年九月九日から同月二九日までの受診の際には、咳嗽のほか喘鳴の症状が見られ、気管支拡張剤の一種である交感神経刺激薬ホクナリンの投与、ステロイド剤の一種であるレダコードシロップの併用、気管支拡張作用を有し気管支喘息発作の治療に繁用されるイノリンとビソルボンの吸入、更にネオフィリンの投与がされているところ、それらの診療に当たつた永松一明医師(以下「永松医師」という。)らは、控訴人一郎の症状が呼吸困難を伴うとは判断できなかつたため、これを喘息性気管支炎と考え、対症的に治療を行つていたこと、ところが、本件事故当日の佐伯医師の診察時には、安田から控訴人一郎には前日来咳嗽が続いて呼吸困難があつたとの申告があり、診察時にも喘鳴及び呼吸の際の胸の動きから呼吸困難の存在が認められたので、佐伯医師は控訴人一郎の症状を気管支喘息の発作状態にあり、その程度は中程度であると診断したことが認められる。そして、《証拠略》によれば、気管支喘息と喘息性気管支炎との判別は、年少時においては必ずしも容易ではないが、喘鳴・咳嗽を伴い呼吸困難のあるときは気管支喘息と診断することができ、右控訴人一郎の従前及び本件事故当日の症状からすると、控訴人一郎は、本件事故当日の佐伯医師の診察時において、佐伯医師の右診断のとおり、気管支喘息の発作状態にあり、その程度は中程度であつたと認めるのが相当である。

(2) 控訴人一郎に発生した心・呼吸停止の原因について、《証拠略》を総合すると、馬場鑑定人は、控訴人一郎の気管支喘息の発作は、佐伯医師の右診察を受けた後急激に重症化し、気管支喘息の主病態である気管支平滑筋の攣縮が急激に起こり、更に気管支粘膜の浮腫性肥厚と気管支内分泌物の増加が加わり気管支内腔の狭窄ないしは閉塞を起こして呼吸ができなくなり、無酸素血症のため呼吸停止・心停止したと推定している。しかしながら、右鑑定の結果(馬場鑑定人)によれば、小児気管支喘息の発作が重症の場合における呼吸の状態は、著名な喘鳴、呼吸困難、起座呼吸を呈し、時にチアノーゼを認めるものであるところ、前示認定(原判決引用)のとおり、控訴人一郎の呼吸停止・心停止を生ずる直前までの喘鳴・呼吸困難の程度はそれほど著しいものではなく、処置を嫌がつてベッドから降りようとしたくらいであり、右状態のまま重症発作の際に見られる右のような症状を呈することなく、看護婦らが抑制し点滴用翼状針を右手甲に刺し込んだ極く短時間のうちに呼吸停止・心停止したものであつて、右小児気管支喘息の重症発作を原因とするものとは趣を異にするものであることが認められる。それに加えて、《証拠略》によれば、被控訴人病院では、控訴人一郎が本件事故により即日入院した際の担当医我妻義則医師において本件事故後まもなく、また廣谷陸男弁護士(本件訴訟代理人)からの文書照会に回答するため被控訴人病院小児科主任医長永松医師において昭和五八年一一月ころ、それぞれ控訴人一郎の呼吸停止・心停止の原因について本件事故の際控訴人一郎の治療に関与した医師、看護婦らから事情を聴取して検討したが、いずれも控訴人一郎の当時の症状からみてその原因が気管支喘息が重症化したことによるものとは考えていなかつたことが認められ、更に、《証拠略》によれば、本件事故当時の診療録に気管支喘息が急激に重症化したことを窺わせる何らの記載もないことが認められることを併せ考えると、控訴人一郎に発生した心・呼吸停止の原因は、控訴人一郎の気管支喘息が急激に重症化したことによるものとみることはできない。

そして、《証拠略》を総合すると、控訴人一郎の心・呼吸停止の原因は、その病態に関する正確な資料が不十分なこともあつて厳密にいえば不明というほかないが、控訴人一郎は、気管支喘息の中程度の発作に伴う呼吸不全による低酸素血症及び高炭酸ガス血症の存在下において、多量の気道内分泌物による気道閉塞、イノリン吸入に伴う心・循環系に対する刺激作用、点滴路を確保するためベッドに抑制された際の精神的不安・興奮に伴う交感神経系の過緊張等が複雑に関与して、その相加ないし相乗作用により低酸素血症と高炭酸ガス血症が増長され、控訴人一郎がベッドに抑制されたのと時間的に偶然一致して、急性の循環不全を来し、心・呼吸停止したと推測する以外、これを合理的に説明することはできないことが認められる。

(三)  次に、控訴人一郎に心・呼吸停止が発生したことについて、被控訴人に債務不履行(注意義務違反)が認められるか否かについて検討する。

(1) 控訴人一郎が、看護婦らによる抑制のための行為や点滴用の翼用針を右手甲に刺し込んだ行為を直接の原因として、心・呼吸停止したことを認めるに足りる証拠はない(前掲鑑定の結果《劔持鑑定人》参照)が、控訴人一郎が点滴路を確保するためベッドに抑制された際に精神的不安・興奮を生じ、それに伴つて生じた交感神経系の過緊張が控訴人一郎の心・呼吸停止に影響を及ぼしたと推定されることは前示のとおりである。《証拠略》を総合すると、一般に、抑制は、特に処置の目的を説明し納得させ協力を得ることの困難な乳幼児に対しては、小児の安全をはかり処置を容易にするために必要であるが、抑制を行う場合には、過度の制限にわたらないよう必要最小限にとどめ、局部的に過度の圧迫をしないなど適切で技術的に熟達した方法により、呼吸の妨げや皮膚の変色損傷の有無など観察を十分にして行うことが必要であることが認められる。ところで、前示認定の事実(原判決引用)によれば、控訴人一郎に対する抑制等の行為は必要最小限の方法で短時間行われたにすぎず、控訴人一郎に突然異常が発生するや、上村看護婦がこれに気付き直ちに抑制等の行為は中止されているのであるから、その間に取られた抑制は、その方法ないし観察の点で右の要件に合致するものであつたということができる。そして、抑制が右のように相当な方法と観察をもつてされた場合であつても、控訴人一郎において抑制を受けたり点滴用翼用針を刺し込まれたりした際に精神的不安・興奮を生じることは避け難く、そのような場合に本件のような異常事態が発生することを予め予見することは不可能であるから、上村看護婦らに抑制等の行為を中断したり医師の指示を求めたりすべき義務があつたものとはいえない。したがつて、上村看護婦らによる抑制のための行為や点滴用の翼用針を右手甲に刺し込んだ行為に注意義務違反があつたものとは認められない。

(2)本件事故当日、上村看護婦が、佐伯医師による診察を受ける前に控訴人一郎に対し、イノリンの吸入措置をしたことは、前示(原判決引用)のとおりであり、《証拠略》によれば、それは、控訴人一郎に陥没呼吸及び喘息の症状がみられ、控訴人一郎のカルテに以前に吸入措置をしたことの記載があつたことから(昭和五六年九月一四日及び同月一六日の欄に吸入措置をしたことの記載があり、そのうち同月一四日の欄にはイノリン〇・二五ミリリットルの吸入措置をしたことの記載がある。)、上村看護婦がこれまでの経験に基づいて自らの判断で行つたものであり、右吸入措置を取つたことは処置後カルテに記載され、佐伯医師に申し送られたことが認められる。そして、イノリン吸入に伴う心・循環系に対する刺激作用が控訴人一郎の心・呼吸停止に影響を及ぼしたと推定されることは、前示のとおりであるが、《証拠略》によれば、イノリンは、気管支喘息発作に対し薬効のある交感神経刺激薬の一種であり、交感神経刺激薬に共通している心拍数増加作用等の副作用が比較的少なく、気管支拡張剤として汎用されている薬剤であり、控訴人一郎の当時の症状からしてイノリンの吸引を選択したことは妥当であり、その投与量もその年齢からみて適量であつたことが認められる。そうすると、上村看護婦が医師の指示に基づかず処置したことには問題があるとしても、処置自体に問題はなく、処置を取つたことは診察前に医師に申し送りがされているのであるから、右処置を取つたことについて注意義務違反があつたとは認められない。

以上のとおりであるから、控訴人一郎が心・呼吸停止に陥つたことにつき、被控訴人病院の医師や看護婦に医療上の過誤はなかつたと認められる。

(四)  次に、控訴人一郎に対する蘇生措置について、被控訴人に債務不履行(注意義務違反)が認められるか否かについて検討する。

(1) 《証拠略》によれば、控訴人一郎の気管支喘息の発作が急激に重症化したと仮定すれば、気管支平滑筋の攣縮、気管支粘膜の浮腫性肥厚、気管支内分泌物の貯留による気管支内腔狭窄が著しくなるため、その状態で人工呼吸を施したとしても、気管支平滑筋の攣縮等を寛解させなければ肺への通気は不可能であつて、全く効果のないことが多いことが認められる。しかし、控訴人一郎は、前示のとおり、気管支喘息の発作が重症化することなく中程度のまま、複数の原因が複雑に関与して呼吸停止・心停止したと推定されるところ、前示二で認定した事実(原判決引用)に、《証拠略》を総合すると、その場合においては、救急蘇生法にいう一次救命措置、すなわち気道確保、呼気吹き込み人工呼吸法(以下、便宜上「マウスツーマウス」という。)、胸骨圧迫心マッサージが、速やかに有効な方法で施行されたとすれば、立花医師がマウスツーマウスに着手してから三分前後で控訴人一郎の自力呼吸が回復したことからも明らかなように(なお、控訴人一郎に投与されたボスミンは、控訴人一郎が心停止していた時期においては有効に作用したとは考えられず、また、宍戸医師の蘇生措置中酸素マスクにより供給された酸素も、当時控訴人一郎の気道が閉塞していたため、後記のような用手人工呼吸法の換気効率を考えると有効に作用したとは考えられない。)、控訴人一郎について、少なくとも、本件のような最重度の中枢神経系の障害が発生することを防止できた可能性が高いと認められる。ところが、前示二で認定した事実(原判決引用)に、《証拠略》を総合すると、宍戸医師及び上村看護婦が控訴人一郎に実施した用手人工呼吸法は、マウスツーマウスに比較して格段に換気効率が悪く、マウスツーマウスを行えない状況下でのみ選択されるべきで、後記のとおり、本件事故時における通説的な医学的知見では、通常は用いるべき方法ではないとされているものであつて、心マッサージとしての効果はあつたとしてもほとんど換気の効果がなかつたため、控訴人一郎の心・呼吸停止から立花医師によるマウスツーマウスが実施されるまでに七分程度を経過したことにより、本件のような最重度の中枢神経系の障害を発生させるに至つたことが認められる。

(2) 《証拠略》によれば、現在医学部学生に対し行われている救急蘇生法の講義及び実習の講義時間は数単位(一単位九〇分)にすぎず、それについての知識は多くの医師がもつているものの、数時間の実習で施行可能になるものではなく、このような現状においては、一般医師に、理想的な形態での救急蘇生法の実施を期待することは不可能であることが認められる。しかし、《証拠略》を総合すると、喘息の病態を考慮すると、外来治療中に突如喘息発作を来たし呼吸困難・呼吸停止が発生することは、医師・看護婦にとつて稀ではあつても予想を越えたあり得ない事態ということはできず、心停止により中枢神経系への血流が途絶すると、通常三ないし五分、殊に小児では二ないし五分で脳は酸素欠乏により不可逆的変化を来すから、このような緊急事態に備えて小児科の外来診療に従事する医師・看護婦も、日頃から蘇生法の知識及び技術を身につけておくことが必要となるところ、蘇生法のうち、用手人工呼吸法は、マウスツーマウス等の加圧人工呼吸に比較して換気効率が格段に悪く、マウスツーマウス等を行えない状況下でのみ選択されるべきで、通常は用いるべき方法ではなく、救急蘇生法にいう一次救命措置によるべきことは、一九六〇年代にアメリカにおいて実証され、本件事故当時には、わが国においても定説となつており(なお、《証拠略》には、わが国のみならず欧州においても警察、軍隊等で人工呼吸法として用手人工呼吸法が正式に採用されているところがある旨の記載があるが、《証拠略》によれば、これは昭和四三年発行にかかる文献である。)、一般家庭医学書においても簡便な蘇生術として第一にマウスツーマウスが推奨されていたことが認められ、また、《証拠略》を総合すると、被控訴人病院は、本件事故当時、未だ救急医療部は設置されていなかつたものの、二〇の診療科に分化し、小児科に医師七名、看護婦約二三名を擁し、札幌地方においては北海道大学医学部付属病院に次ぐ医療水準の期待されるべき教育関連病院であつたことが認められることを総合すると、《証拠略》が指摘するように、被控訴人病院のような医療機関の小児科外来で医療行為に当たる医師・看護婦は、緊急事態の発生に備えて平素から救急蘇生法にいう一次救命措置の知識及び技術を身につけておき、本件のような緊急事態が発生したときは、速やかに有効な方法で一次救命措置を実施すべき義務があつたというべきである。ところが、本件事故当日控訴人一郎の診療に当たつた宍戸医師らは、控訴人一郎に呼吸停止・心停止が発生した際、速やかに有効な手法で一次救命措置を施さず、そのため控訴人一郎に前示(原判決引用)の障害を発生させたのであるから、被控訴人には債務不履行の責任があるものというべきである。

(3) 《証拠略》によれば、宍戸医師は昭和二五年に医師となり、本件事故時までに三〇年をこえる小児科医師としての経験を有しているが、この間小児の心・呼吸停止の蘇生法として用いてきたのはもつぱら用手人工呼吸法であり、マウスツーマウスは一、二度使つたことがあるがうまくいかなかつたことが認められる。その意味で同医師は用手人工呼吸法には習熟していたがマウスツーマウスには不慣れであつたと認められるところ、いくつかの医療技法が併存する場合、そのいずれの手法を選択するかは原則として医療担当者の裁量に委ねられていると解されるが、先に認定のように用手人工呼吸法はマウスツーマウスに比してはるかに効率が悪く、通常は用いるべきではないとの医学的知見が既に通説になつていたことからすれば(因みに、《証拠略》《昭和四二年に著述された「人工呼吸法」と題する医学書》には「用手人工呼吸法は、救急法の一つとして存在価値を全く失つてしまうことはないであろうが、次第に用いられなくなる運命にある。」との記述がある。)、本件においてはそのような裁量の余地はなかつたというべきである。

2  以上によれば、被控訴人は、被控訴人病院の医師・看護婦らが控訴人一郎に呼吸停止・心停止が発生した際、速やかに有効な方法で救急蘇生法にいう一次救命措置を施さず、そのため控訴人一郎に前示(原判決引用)の障害を発生させた点で、控訴人一郎に対し債務不履行上の責任を負い、被控訴人病院の医師・看護婦らの右行為は、同時に控訴人一郎に対する不法行為にも当たるから、民法七一五条による責任も負うものである。

ところで、《証拠略》は、控訴人一郎が心・呼吸停止した際、速やかに有効な方法で一次救命措置が施されていれば、控訴人一郎について中枢神経系の後遺症を残さず蘇生した可能性が高い趣旨の供述をする。しかし、右供述もあくまで可能性を述べているものである上、前示のとおり、心停止により中枢神経系への血流が途絶すると、通常三ないし五分、殊に小児では二ないし五分で脳は酸素欠乏により不可逆的変化を来すとされているところ、控訴人一郎は一次救命措置に着手してから三分前後で自力呼吸が回復したのであり、さらに、《証拠略》によれば、医学上の一般的報告(したがつて、本件に直ちに当てはまるものでないことは勿論である。)として、右一次救命措置を施せば、呼吸停止してから三分後で七五パーセント、五分後で二五パーセントが蘇生したとの報告や、右一次救命措置が市民の常識といつてもよい程普及しているアメリカにおいてさえ、病医院到着時心停止の状態で収容された患者(その蘇生率は六〇パーセント)のうち社会復帰できる者の割合はせいぜい二五ないし四〇パーセントを超える程度であり、いつたん心停止を経過すると予後が不良であるとの報告もあることが認められることを考えると、控訴人一郎が心・呼吸停止した際、速やかに有効な方法で一次救命措置が施されたとすれば、中枢神経系の後遺症を全く残さず蘇生し得たことも可能性としてはあり得るものの、かなり重度の中枢神経系の後遺症を残した可能性も否定することができず、以上の諸事情を総合考慮すると、控訴人一郎に発生した損害のうちその五〇パーセントについて、被控訴人にその債務不履行ないし不法行為と因果関係があるものとしてその責任を負担させるのが相当である(なお、《証拠略》を総合すると、前記救急蘇生法にいう一次救命措置は、特殊な器具や薬品を用いることなく、医師以外の者でも施行できる措置であり、医療機関においては、これと同時に、器具・薬品を用いて医師が行う二次救命措置である静脈路の確保、適切な薬物の投与、心電図監視と除細動などの措置が取られるべきであるが、本件においては、二次救命措置が施されることによつて、中枢神経系の後遺症の発生が阻止され、若しくは一旦発生した障害が回復軽減し得たと認めるべき証拠はないから、二次救命措置についての義務履行の有無についての判断をしない。)。

四  そこで、控訴人らの損害について判断する。

1  控訴人一郎について

(一)  前示の事実(原判決引用)によれば、控訴人一郎(本件事故当時三歳)は本件事故により労働能力を全く喪失し、回復の見込みがなく、本件事故がなければ一八歳から六七歳まで労働可能であり、その間毎年少なくとも昭和五八年賃金センサス第一巻第一表の産業計・企業規模計・学歴計の男子労働者の年間給与額三九二万三三〇〇円(二五万四四〇〇円×一二+八七万〇五〇〇円)を下回らない収入をあげ得たものと推認できる。そこで、控訴人一郎が本件事故時に一時に右金額を取得したものとして、ライプニッツ式計算法により年五分の割合による中間利息を控除してその現価を求めると、次のとおり三四二八万七六八〇円となる。

三九二万三三〇〇円×(一九・一一九一-一〇・三七九六)=三四二八万七六八〇円

したがつて、被控訴人はその五〇パーセントに相当する一七一四万三八四〇円を支払うべき義務がある。

(二)  控訴人一郎の本件事故により被つた精神的苦痛に対する慰謝料額としては、七五〇万円が相当である。

(三)  前示の事実(原判決引用)によれば、控訴人一郎は、本件請求時である六歳の時点からその生涯にわたり、日常生活に全面的に介護を要すると認められ、その期間は本件請求時である昭和五九年簡易生命表の六歳男子の平均余命六九年(年未満切捨て)と認めるのが相当であり、その間の介護費用は年に一八〇万円(月一五万円)を要するものと認めるのが相当である。そこで、控訴人一郎が本件事故時に一時に右金額を取得したものとして、ライプニッツ式計算法により年五分の割合による中間利息を控除してその現価を求めると、次のとおり三〇〇二万四九〇〇円となる。

一八〇万円×(一九・四〇三七-二・七二三二)=三〇〇二万四九〇〇円

したがつて、被控訴人はその五〇パーセントに相当する一五〇一万二四五〇円を支払うべき義務がある。

2  控訴人太郎及び花子について

前示の事実(原判決引用)によれば、控訴人一郎の両親である控訴人太郎及び同花子が、本件事故により控訴人一郎に重度の障害が生じたことによつて、同控訴人が生命を失つた場合にも比すべき精神上の苦痛を被つたことは容易に推認することができる。控訴人太郎及び同花子の右各苦痛に対する慰謝料額としては、各二五〇万円が相当である。

3  弁護士費用について

本件訴訟の経緯、立証の難易、認容額等一切の事情を考慮すると、控訴人一郎については二五〇万円、控訴人太郎及び同花子については各二〇万円をもつて本件事故と相当因果関係のある損害と認めるのが相当である。

五  以上によれば、被控訴人は、控訴人一郎に対し、損害賠償金四二一五万六二九〇円及び弁護士費用を除いた内金三九六五万六二九〇円に対する本訴状が被控訴人に送達された日の翌日であることが記録上明らかな昭和五九年一一月二三日から支払ずみまで民法所定年五分の割合による遅延損害金を、控訴人太郎及び同花子に対し、各二七〇万円及び弁護士費用を除いた内金二五〇万円に対する前同日から支払ずみまで民法所定年五分の割合による遅延損害金を、それぞれ支払うべき義務があるが、控訴人らのその余の各請求は理由がないことになる。

よつて、右とその趣旨を異にする原判決を右のとおり変更することとし、訴訟費用の負担について民事訴訟法九六条、九三条、九二条を、仮執行宣言について同法一九六条をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 宮本 増 裁判官 河合治夫 裁判官 高野 伸)

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